
かすが娯楽場の成り立ち
このページでは、「かすが娯楽場」の成り立ちを、ゲームセンターの歴史や大阪新世界の街並みの時代変化も織り交ぜて紹介しています。昭和、平成を生き抜いた「かすが娯楽場」の記憶です。

01
戦後復興~労働者の町~
大阪の新世界は労働者の寄せ場が集まる釜ヶ崎(現在のあいりん地区)に近く、彼らに食や娯楽を提供する場として戦後栄えます。その頃、かすが娯楽 場は中華料理店と食堂を営んでおりました。
02
食堂から娯楽場へ
当時、新世界では映画館、劇場、将棋店などが多く営業しておりました。創業者は家電や自動車の飛躍的な技術進歩に娯楽機も進化していく未来を見据え、食堂を思い切ってやめて1959年頃に娯楽場へと業種変更しました。雀荘、アレンジボールをおいた「かすがクラブ」がオープンしました。


03
新潟に思いを馳せて、
創業者は新潟のコメ農家の4男として誕生、長男ではなかったため家業を継げず、生きていくため商売する決意をして大阪へ行きました。かすが娯楽場の「かすが」は新潟の上杉謙信公の居城『春日山城』から名前をとっています。生まれ育った場所の新潟に強い思い入れがあったのが想像できます。
写真提供:上越観光コンベンション協会
04
様々なゲーム機を提供する場に
フリッパーや初期のクレーンゲーム(タバコを景品にしていた)から、射撃ゲーム機、初期のメダルゲーム機「シグマ社ビッグ&スモール」「バーリー社スーパーコンチネンタル」などが稼働していました。ラスベガスのカジノにあるスロットマシーンやポーカーゲームが多く稼働していました。
この当時は地下に卓球場もあったそうです。


04
インベーダーブーム
かすが娯楽場はフリッパーやクレーンゲームから、世間のインベーダーブームの波に乗り、完全にゲームセンターとして舵を切ります。これから当店はビデオゲーム機とメダルゲーム機の2つの車輪で進んでいきます。
05
風営法、ゲームセンター全盛
アーケードゲーム界では、テーブル型からアップライト型のビデオゲームが主流となり、SEGA社ハングオン等の体感ゲームも増え、90年代にはストⅡのヒットによる格ゲーブーム到来、まだまだゲームセンターが娯楽をけん引する時代が続きました。かすが娯楽場も全盛期は4店舗まで店舗を増やしました(店名はそれぞれ違う)。


06
新世界の衰退から見えたもの
一方、新世界ではバブル崩壊後、労働者の高齢化から汚い、怖い街として衰退の一途をたどります。1997年にできたフェスティバルゲートも10年足らずで閉館。しかしながら、串カツや昔ながらの大阪の街並みを味わえるとして、新世界は少しずつ観光地として賑わい始めます。
07
ゲーセンからアミューズメント施設へ
2000年代からビデオゲームが主体の小規模ゲームセンターは暗黒時代に入ります。基板の高騰、従量課金、家庭用ゲーム機の高性能化などがその原因でした。変わってプリクラやUFOキャッチャーを主体とするゲームセンターやアミューズメント施設として大型化する店舗が増えました。かすが娯楽場も閉業するかどうか迷っていた時期もあったそうです。


08
火災からの復活
2017年、物取りによる放火により当店は火災します。多くのゲーム機が故障しましたが当時のスタッフによる懸命なる修理によってほぼ元通りになりました。電飾看板が1つ燃えましたが、入口も一新して現在の茶色の外壁になりました。
09
新型コロナウィルス
2019年、火事の傷跡も消えぬ間に新型コロナウィルスが猛威を振るい、ゲームセンターは飲食店等に支給された休業補償も出ず瀕死の状態に追い込まれました。当時、小規模ゲームセンターによるチャリティーキーホルダーによって多くのお客様に救われました。


10
ゲームセンター~令和から神話へ~
令和になり、「スタートボタン」を知らない子供達はブラウン管をタッチし、若い男女はレバーの意味が分からず右手で2Pレバーを握り左手で1Pボタンを操作します。
「ゲームセンターには、かつてこんなゲーム機があったんだよ」と、言われる時代になりそうです。
いえいえ、まだまだこれからですよ!
(作成日2025年12月)


